「嫌煙権訴訟体験記」 原告  仁 志 健 一


タバコの煙暴露実験などで証拠提出

 

 タバコの煙とアトピーに関する 内外の医学文献は、残念ながら見つけることができなか
った。そのために、原告のアトピー性皮膚炎は、窓を開ける春と秋や土日の出勤しない時、
さらに屋外で勤務する時には症状が軽快することから、受動喫煙との因果関係を明らかに
するため、タバコの煙にさらされる状態をつくりだして『症状変化をみる暴露実験』を行
った。そしてこの医師の証明を証拠として裁判所に提出した。

 この嫌煙権訴訟体験記は、裁判所に提出した「自己意見書」に加筆したもので、中見
出しは編集者がつけた。

 

 

 初めまして、多坂市で嫌煙権訴訟を起こしました仁志です。多坂市電車部で地下鉄の電気設備
設計、管理の仕事をしております。

 

私の生いたち

 

最初に申し上げておきますが、私の家族および血のつながりのある親戚に喫煙者はいません。
これは重要な遺伝的性質を示しているのかも知れません。

 私は、幼少期は多坂市内に住んでいました。昭和30年代の多坂市内の空気の悪さから3〜4歳の
頃に小児喘息になり、妹までなりかけたので家族で引っ越し、6歳より千里ニュータウンに住ん
でいます。子供の頃は喘息のため体が弱く、あまり運動が出来ませんでしたが、成長と共に喘息
もほとんどでなくなり、大学時代はウエイトトレーニングやスキーで体を鍛えていました。大学
も京都にあったためか空気の悪さには慣れていませんでした。

1983年春、卒業してすぐ 多坂市役所に勤めました。22歳でした。最初の3月は研修期間で研
修室内は禁煙でしたので問題はなかったのですが、新採で電車部電気課に配属された初年の夏は、
執務室は冷房のため窓を閉め切っているのでタバコの煙が層を成し、その余りの空気の悪さに
咳が止まらず、8月末にはこめかみのあたりから髪がボソボソと抜けたことを覚えています。
死ぬかと思いました。冷房が止まって秋になり、窓を開けるようになると直り、髪の毛も生え戻
りましたが、その冬の暖房で締め切ると同じようにせき込んで髪が抜けるという状態でした。

の人に禁煙してくれるようにいいましたが、新採の身なので強く言えませんし、だれも真剣に
は取り合ってくれません。特に当時の電気課は年功序列的な雰囲気が強く、新米の私などは部屋
の掃除はもちろん、気持ち良く吸っていただくようにと先輩方の灰皿の掃除までさせられており
ました。

 

タバコの煙の充満する職場で

 

 私自身、このようなタバコの煙の充満している環境に毎日さらされるような経験は生まれて初
めてでしたので体が慣れていないからで、しばらくすれば平気になるだろうと思っていました。
もし慣れそうになかったら多坂市をやめて医学部に行き直そうと思っていました。春になり窓が
開くようになると直り、2年目の夏も同じようにせき込んで髪の毛がぬけましたが、体に抵抗力
ができたのか髪の毛の抜ける量は減りました。このぶんならあと1.2年でなんともなくなるだ
ろう、退職しなくてもよさそうだ、と思って我慢しておりました。

ただし、労働組合の集会に参加したときは職場の禁煙をときどき提案していました。実際、
3年目はタバコの煙にかなり慣れて髪の毛が抜ける量もさらに少なくなってきたのですが、おお
きな落とし穴が4年目にやってきました。アトピー性皮膚炎になったのです。

 

アトピー性皮膚炎との格闘

 

1986年5月頃、最初、左目まぶたに蚊に喰われたような湿疹が一つでき、二ケ月ほどそのままで、
冷房が入りだして窓が閉め切られると急に増え始めたのです。それも不思議なことに体中心線に
左右対称に増えるのです。左目まぶたのつぎは右目まぶた、額の左端に一つできたと思っている
と2.3日のうちに額の右端にもという風に、どんどん広がって9月ごろまでにほぼ全身に広が
ってしまいました。その間、最初は町医者にいって塗り薬をもらっていたのですが直らず広がり
だしたので、8月に多坂大学医学部付属病院に行くようになりました。

アトピー性皮膚炎と診断され、ステロイド軟膏と抗アレルギー剤、抗ヒスタミン剤をいただき
ました。指示された量を初めて飲んで寝たつぎの朝は強烈な脱力感で起きあがれなかったことを
覚えています。

軟膏は塗るとある程度効くのですが2.3日で再発し、また次々と新しい湿疹ができるのに追
いつかない状態でした。九月中ごろに冷房がきれて窓を開けるようになると湿疹はどういう訳か
なおってきました。

私はてっきり、病気が直り始めたのかと思いましたが、冬が近づいて窓を閉め切るようになる
とまた湿疹は悪化しはじめました。私はこの当時、まだアトピーとタバコの因果関係に気づいて
いませんでした。もし気づいていればすぐに退職したでしょう。考えられる原因・要因を徹底的
にしらみつぶしに改善をしていきました。発症の仕方が対中心線に左右対称であることから体内
からの反応であることは想像がつきました。

 

金属も食物も花粉も反応せず

 

 体内に入り込むもの、即ち空気もしくは食物等に原因があると考えられたので、当初は金属ア
レルギーを気にして、小学生の頃からしていてなんともなかった歯につめた銀をすべてプラステ
ィックに替えもしましたが良くなりませんでした。

 病院でいろいろ調べてもらったのですが、病院の血液検査では食物・花粉等の反応がほとんど
ないことが分かりました。医師には直るのに2.3年かかるかも知れないと聞かされていました
ので、適当に運動をして体を鍛え、清潔を心がけ、じっと我慢することにしました。また個人で
できる環境改善として、布団はダニ退治つきの布団乾燥器で毎日乾かしました。部屋の畳やじゅ
うたんは当然捨てて板の間に替えもしました。掃除をするときは真冬でも窓を開け、ホコリを吸
い込まないようにするのは昔からやっていました。その後の症状の変化も、職場の窓を閉め切る
真夏と真冬に悪化し、窓を開ける春と秋に良くなるというものでした。

 

どうもタバコの煙が怪しい

 

 タバコとの因果関係に気づいたのはアトピーになって2年目の夏でした。当時私は、新方式の
地下鉄設備の開発(リニアモーターによる小型地下鉄)を担当させられ、港の埋め立て地に造ら
れた野外実験場に数日間続けて野外勤務をし、電車部電気課に出勤しない期間がありました。す
るとその間、どんどん湿疹が良くなっていったのです。周囲は海の野外なので当然タバコの煙な
どありません。

 自宅から通っていましたので食べるものも変わっていません。いつもなら悪化をしている真夏
です。野外勤務が終わって、いつものタバコの煙の立ちこめる職場に出勤するようになると、す
ぐに湿疹は悪化しました。これでタバコの煙がどうも怪しいと気づいたのです。1987年、27歳の
時でした。

 その時点で過去を振り返り、職場の窓を閉め切る真夏と真冬に悪化し、窓を開ける春と秋に良
くなるということ、真夏でも休暇や野外勤務で良くなり、真冬でも正月休みやスキー等でしばら
くタバコにさらされない休みを取るとよくなること、正月休みでも友人宅等でタバコにさらされ
た時は悪化したことに気づきました。もっと短い一週間の周期でみても、極端な変化ではないで
すが、土、日で家にいると良くなり、月曜から出勤すると悪くなることにも気づきました。この
ような症状の変化からタバコの悪影響に気づいたのです。

 

組合大会で職場禁煙を訴える

 

 それからは周りの人にタバコをすわないように頼んだり、上司に職場を禁煙にしてくれるよう
に頼んだりしましたが相手にしてもらえませんでした。労働組合の大会等で職場禁煙を訴えまし
たが議案にもあげてもらえませんでした。その大会で賛同の意を発言してくれた人も数人いまし
たが、その人たちはいずれも若い人たちで、中堅以上の人からはありませんでした。当時労働組
合青年部の代議員をしていましたので、青年部は何とか動かすことができ、職場の喫煙に関する
無記名のアンケート調査をすることが出来ました。その結果、30歳未満の職員の約四割が職場
内喫煙の規制を求めていることがわかりましたが、その結果をもっても労働組合を動かすことは
できませんでした。

 

「あなたも黙っていたほうがよい」

 

 人々の多くは、わかっていても、タバコを吸う上司や同僚との人間関係を気にして黙っている
のです。多坂市にはカウンセリングルームがありますので、このことを相談しにも行きましたが、
「あなたも黙っている方がよい」との趣旨のことを言われました。私はこの時点で日本の社会の
問題点を痛烈に感じました。

 人権を守るのは民主主義であり、その民主主義のベースはディスカッションであるのにこれが
抑圧されているのです。日本の教育は知識中心でディスカッションをあまり重んじていませんが、
これが諸外国に比ベ禁煙化が遅れている最大原因ではと思います。

 多坂市での将来は悲観するばかりでした。公務員になったのは、人間環境整備の仕事ができる
のが一つの理由なのですが、自分の体が職場の環境に耐えられないとは想像していませんでした。

 

耐えきれないかゆみと化膿の痛み

 

 この頃、私の体の皮膚はぼろぼろで体じゅうから体液がにじみでて、かゆくてひどいものでし
た。そのかゆさは蚊に喰われたのと同じくらいで、それが何日たってもまったくおさまらないの
です。またそれはジュクジュクして体液がにじみでて、かかなくともこするだけで皮がむけてし
まうほど内部から壊されているのです。悪いときは髪の毛の生え際などは体液がにじみでては固
まり、かゆいので我慢しきれず少しかくとポロポロと落ちてものすごい量のフケが毎日出ました。

体は赤黒い湿疹だらけでヒョウのようで、まるでペスト患者のようで自分の体ながら見るのが恐
ろしいほどでした。他人はもちちろん親にも見せられる代物ではありませんでした。それがまた
かゆいのです。ステロイドの塗り薬でマシにはなるのですが、次から次へとできる湿疹に、つい
にできていないところがなくなり、そのうちヒョウのような模様もわからなくなりました。

よってステロイド軟膏も部分的でなくべったり全身に塗ることとなりました。また、皮膚が弱
っているために化膿もしやすく、足はあちこち化膿して小さなオデキができていました。湿疹の
かゆみと化膿の痛みと両方なのです。

 

退職するか、法的手段に訴えるか

 

 今退職すればすぐに直るのではと思いましたが、100%の確証がありませんでしたので思いと
どまり、医師の判断を仰ぎました。しかし当時、多坂大学医学部付属病院はアトピーに関して
の特別な研究はしておりませんでしたので、タバコとの因果関係の究明は出来ませんでした。
それでアトピーを研究している滋賀医科大学付属病院を紹介され、通院するようになりました。

 しかし、当時の私の症状はひどかったので試験できるような状態でもなく、場合によっては
アトピー性白内障で失明するかも知れない状能でした。皮膚の反応が目にきた場合です。春に
ステロイドの内服による短期的な治療を受け、かなり劇的に改善しましたが、夏になり、冷房
で職場にタバコの煙がこもるようになるとまた悪化し、苦しい思いを強いられました。薬は最
小限にとどめないと副作用がでたり、効き目が悪くなるのでそうしていたのですが、症状のひ
どい所にはきついステロイド軟膏を塗らねば耐えられないので塗ると、症状のひどい背中など
は皮膚が萎縮したり、また、塗る指先も副作用で割れてくるのです。私の指先は全て割れ、替
わりに塗ってもらった母の指まで割れる始末で、それ以降は指にラップを巻いたり、箸やスプ
ーンの先などで塗りました。

 この時点でもう、退職するか、人事的な不利益を被るかも知れないが法的手段に訴えるしか
ないと考え、多坂弁護士会に行き、法律相談を受けて、今日の、吉田弁護士を紹介していた
だきました。1989年の年末でした。

 

検査項目に「タバコの煙」なし

 

 このころ私は厚生省の「喫煙と健康に関する報告書」を手に入れていまして、そのなかで、
「免疫に関する影響」という一節に、「喫煙でIgEに関して上昇がみられ、アレルゲンに対す
る皮内反応の亢進も認められている」という部分を見つけていました。受動喫煙は喫煙と同じ
なのでこれは私のアトピーの悪化を説明できる文献ではないかと考え、弁護士に説明いたしま
した。ここで、アトピーというのはIgE(免疫グロブリンE)を過剰に生成しやすい体質を言い、
それによる疾患の一つにアトピー性皮膚炎があるのです。私の血中IgE濃度は健康人の40倍
を越えていました。

これは私の考えですが、アトピー疾患は免疫系の暴走で正常な自分の組織を攻撃してしまうの
ですから、そのような状態になり易いアトピー体質の人にとっては、タバコの煙は直接の抗原
にはならなくとも一種の刺激物として免疫系を刺激し、アトピー疾患を発症させたり、悪化さ
せたりすると考えられます。私の場合はタバコの煙を吸わされてから数十分で少しかゆみを覚
え、約8時間後には目に見えて湿疹が発生または悪化します。血液検査とプリックテストでは
ダニとハウスダストには強いT型アレルギーを示すのですが、血液検査にはタバコの煙という
検査項目は現在なく、パッチテストを行った結果ではタバコの葉と灰ではアレルギー反応は認
められませんでした。ただ私が自分でやった実験で、タバコの煙をガラスびんで捕らえたヤニ
でのパッチテストでは、貼って2.3分で痒くなったことを覚えています。生の葉ではなく、
煙に含まれる成分に問題がありそうなのです。この研究をもっとしてほしいものです。

 人口の約2割がアトピー(アレルギー)体質なのですから、気づかないだけで被害者はたく
さんいると思います。就職して突然アトピー疾患になった人などは可能性が高いですね。スト
レスだけとは限りません。知人にタバコの煙で鼻炎になる人もいるのです。

 話しをもとにもどします。

 

広い廊下に灰皿を、部屋は禁煙に

 

 吉田弁護士に私はまず、調停をお願いし、1990年3月多坂簡易裁判所に申請しました。呼び
出された多坂市側の担当管理職の一人は「禁煙などくだらない」と裁判所調停委員の前で怒っ
ていたそうです。調停委員は私の申し出を理解して下さり、多坂市側を懇々と説得して下さ
ったのですが、「廊下が幅3mもあるのですからそこに椅子と灰皿を置いて、せめて私のい

部屋だけでも禁煙にして下さい」という申し出に対し、多坂市側は、「できない」の返事の
みでした。

 進展のない調停が繰り返される中、春が終わり夏が過ぎて秋になりました。この間、私と毎
月のように顔を会わせていたので、調停委員にも、真夏の冷房で閉め切るころに悪化し、秋に
窓が開く頃に良くなる私の顔の湿疹の変化が確認できたようでした。調停委員に口説かれた大
阪市側の代表者は「私たちには決定権がない」などと言ったとか調停委員に最後の頃に開かさ
れました。まったく成果のないまま半年ほどで調停は不調に終わりました。

 

裁判を起す考えに間違いはない

 

 その後数カ月は多坂市側の様子をうかがっていたのですが改善しようという気配がなかっ
たので、1991年1月から訴訟の準備にはいりました。また調停中に吉田弁護士から東京の伊佐
山弁護士の書かれた「嫌煙権を考える」という本を紹介され、外国での嫌煙権裁判は最初は
どのようにして勝利したかを知り、写真撮影や記録を本格的に始めていました。吉田弁護士は
他の弁護士にも応援を依頼し、山本弁護士、神谷弁護士、田村弁護士を合わせて四人の弁護団
となりスタートしました (後に谷弁護士が加わり五人)。特筆するべきはこの内二人は喫煙
者であることです。

 これは私自身、この裁判を起こす考え方に間違いはないという自信になり、たいへんありが
たく思いました。4月頃には市民組織たばこれす」にもアクセスできるようになりました。
特にたばこれすのおかげで情報量は飛躍的に増大し、8月27日、多坂地方裁判所に提訴にこぎ
つけました。

 

生まれて初めてのテレビ出演

 

 行政相手なので世論を味方にしなければ不利だということもあり、プレス発表をその日に行
ったのですが、この時のマスコミの反響は想像以上で、在阪のすべてのテレビ局が多坂地裁司
法記者クラブに集まり、全国の新聞に載ったのです。生まれて初めてのテレビ出演でした。ス
ポットライトがまぶしく、目をしかめていたので、新聞に載った自分がいやに人相悪く写って
いたのが笑い話です。31歳になっていました。そして全国から励ましの電話や手紙を頂き、
また全国の市民組織を通じてたくさんの署名までいただきまして、改めてこの裁判の社会的重
要性に気づいた次第です。

 

死んでも裁判継続のため賠償請求

 

 訴状では、私の現在及び将来の職場の禁煙(分煙)と損害賠償請求をしました。損害賠償請
求は金めあてと思われるのがいやでしたくなかったのですが、地裁レベル以上に挙げるため 
(請求額95万円以上)と、私が耐えきれず退職しても、また、死んでも裁判継続が可能なようにする
ためです。すべての職場を禁煙にせよと言いたかったのですが、日本の法律では (外国でもそう
でしょう) 本人に直接利益になることしか訴えることができませんので、私の所属しない職場
まですべて禁煙にせよなどとは言えないのです。しかし、将来の職場も入れているので実質的に
は市全職場ですけどね。また、損害賠償請求なしでは、死亡退職の場合、本人がいなくなるのです
から職場の禁煙請求はできなくなり、裁判は中止になるのです。

 

受動喫煙とアトピーの因果関係

 

 これまでの日本の裁判では原告の嫌煙権は「受認限度内」 の一言でしりぞけられてきました
が、私の場合は具体的な健康被害救済を求めていますので、受動喫煙とアトピーとの因果関係さ
え立証できれば勝ちだと考えていました。しかし、タバコとアトピーとの関係の医学文献は残念
ながら見つけることはできませんでした。日本では、タバコ産業が公私に渡る研究機関に助成金
を出していますので、そのような研究は行われにくくなっているようです。外国の文献に頼る
ところで、医学的立証は困難を強いられそうでした。故に、「嫌煙権を考える」にも載っていたシ
ンプ夫人の裁判例を教科書に、日々の職場の状態記録、体の写真撮影等、疫学的な一般論から責
めることとし、これも既に提出しています。調停の頃から証拠にと、ときどき胸や背中の写真を
撮っていましたし、メモに今日は誰々計何人喫煙者がいたかなど記録していました。

 裁判で私がアトピーだという証拠を提出した後でも、ひどい目にあったことがあります。タバ
コの煙を多量に吸い込んだ職場のエアクリーナーを掃除させられ、入院する事態となったので
す。私仁志のために特別に置いたエアクリーナーなのだから仁志が掃除するのは当然という市
側の考えでした (私は室内禁煙は要求しましたが、エアクリーナーなど要求したことはあり
ません。またこのエアクリーナーの活性炭フィルタの交換も設置以来約3年されていませんでし
た)。

 

アトピー患者にエアクリーナー掃除

 

 フィルターの清掃中、タバコの煙のしみこんだホコリを少し開いた窓からの突然の風で顔面
にか ぶってしまったのです。ホコリに対するアレルギー反応で皮膚に穴が開き、その傷口から
ヘルペ スウィルスに感染し、ひどいヘルペスになって、特に顔面の皮膚が殆ど溶けてしまった
のです。 11日間の入院でした。

 私の担当医師(須貝先生) は「アトピー患者に無茶なことをさせるんだな」、と言っておりまし
た。その時の悲惨な写真と診断書も証拠として提出しています。

 その後はさすがにエアクリーナーの掃除はさせられなくなりました。

 

タバコの煙暴露実験と証拠の提出

 

 裁判前に、滋賀医大から、アトピーの研究で実績のある多坂回生病院を紹介されていました。
そこの先生(須貝先生) はアレルギー学会でも有名な方で、その先生の指導のもと、1992年、タバ
コの暴露実験を行い、タバコの煙が私のアトピー性皮膚炎を悪化させるとの証明を得ることがで
き、裁判所に証拠提出できました。このことについて少し詳しく説明します。暴露実験二回及び
無暴露実験一回をおこないました。無暴露実験では当然ですが悪化はありませんでした。

 第二回目・暴露実験

 まず実験開始前に土、日とタバコ煙のない自宅で湿疹を回復させておく。

第一日目月曜日、AM9:00内科医師に暴露前の皮膚の検診と呼吸音の聴音をしてもらい、実験を
開始。弁護士の監視のもと、ホテルの一室(東興ホテル南森町1301号室) に閉じ込もり、同じ部
屋で弁護士にタバコを吸ってもらってタバコ煙の充満する中で10:00〜18:00まで過ごす。直
後に内科医師に呼吸音を聴音してもらい、乾性ラ音(ぜーぜーという音) が生じているのを確
認してもらう。

 ホテルにそのまま宿泊。

第二日目火曜日、AM9:00に皮膚科医師の皮膚検診、湿疹が増えていることを確認。呼吸音は正
常に戻っていることを確認。

10:00〜18:00暴露実験。直後に内科医師に呼吸音を聴音してもらい、乾性ラ音(ぜーぜーとい
う音)が生じているのを確認してもらう。ホテルにそのまま宿泊。

第三日目水曜日、皮膚科医師の皮膚検診、更に湿疹が悪化していることを確認。これで実験終
了。帰宅する。

 この暴露実験の後、影響が大で悪化は二日ほど続いた。また、この夏の職場でのタバコの被
害も多く、症状が悪かったので秋まで無暴露実験ができなかった。

 

労働安全法違反を監督署へ申告

 

 これらと前後して、昨年(1992年)7月、労働安全衛生法が改訂され、「タバコに不快を感
じる労働者がいる場 合は喫煙対策を講じること」との指針が出て
いることが分かって、私は
昨年秋ごろから上司や労働組合に「この ままでは労働基準監督署から指導が
入りますよ」と
宣伝して回りました。その甲斐あって か、今年3月、労働基準監督署に
弁護団を通じて指導を
依頼すると、約1
月半後には多坂市は私に禁煙の職場 をつくって異動させました。

 この時の経過を少し詳しく述べます。

3月16日10:15 多坂高裁司法記者クラブで「労働基準監督署に指導を依頼する申告書を提出
します」とプレス発表。多坂西労働基準監督署に申告書提出。この日夕方の各局テレビニュー
スが流され、その後、多坂労働基準局、労働省へ報告が流れた模様。

4月15日AM  西労働基準監督署が多坂市電車部を呼出し、指導。「わかりました」と電車部
(職員部長、厚生課長、電気課長) は退署。

4月28日9:00 私に電力課への異動辞令。  引継のため電気課にその後も出勤。

5月11日   新事務所に引っ越すとそこは事務所内は禁煙であった。

 

禁煙職場に異動して健康回復、裁判は和解成立で解決

 

 この禁煙職場への異動の効果はてきめんで、私のアトピーはどんどん良くなり、この原稿を
打っている現在ではほとんど直ってきています。これも強力な証拠となりますね。

 この職場の禁煙・分煙こそ裁判で求めていたものだったので、すぐ和解交渉が始まりました。
また、それまで裁判上第三者である支援組織が集めて提出する全国からの署名を多坂市は受け
取りを拒否していたのですが(行政の態度としては不思議だったのですが)、和解交渉中の6月
4日に受け取りました。

 出勤しては職場の上司や労働組合に、和解文書には分煙処置を私単独の職場にとどめること
なく全市の職場とするよう記載してほしいこと、またそれがとうていのめないのなら分煙処置
を可能なところからどんどん進めるよう記載してくれるようお願いしました。

 幸い上司に良くわかって下さる方が一人いて、その方がたいへんよく動いて下さり、決して
容易でない交渉を何とか乗り切ることができ7月30日和解が成立しました。

 

みなさんの暖かいお心に感謝

 

 一人で悩んでいた頃は、さっさと裁判を起こして一年以内に辞職し、医者になって自力で医
学的立証をしてやろうとばかり考えておりました。しかし、強力な弁護団、応援してくださる
市民組織の皆様方の暖かいお心のおかげで、何とか耐えることができ、裁判を勝利的に終える
ことができました。

 今後は日本に禁煙・分煙が広まるよう地道な協力をしていきたいと思っています。

 最後に、献身的にほとんど手弁当で働いて下さった弁護団、文献調査やビラ撒き、署名集め
等たいへんな援助をいただいた支援組織の方々、署名をくださった全国の方々、嫌煙権を切り
開いてくださった諸先輩方に感謝申し上げ、私の筆を終わらせていただきます。