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2003(平成15)年5月の健康増進法施行から20年。禁煙の流れと、受動喫煙防止への取り組みは着実に広がってきた。昭和から平成・令和へと、鉄道とたばこの歴史を振り返ってみよう。 【画像】懐かしい! 鉄道車両の「灰皿」を見る(15枚)
1974(昭和49)年夏、首都圏の駅で初の禁煙タイムが設定された。対象となったのは国電区間、新宿・渋谷・高田馬場・お茶の水・四ツ谷の5駅。午前8時から9時、夕方の17時30分から18時30分の喫煙を遠慮してもらう、という趣旨だった。
プラットホームの各所に置かれた銀色の灰皿の記憶している人も多いだろう。しかし当時まず問題とされたのは、喫煙場所でのたばこをめぐるけむりの害ではなく、ラッシュ時の歩きたばこだった。N700系の喫煙ルーム。コロナ禍で入場制限を設けていた
現在では考えられないが、満員電車から吐き出された乗客の多くが、駅の階段でたばこに火をつけたのである。他人のたばこでやけどをする、火や灰が落ちて衣服が汚れる、ストッキングが焦げるなどの苦情が相次いでいたという。「ラッシュアワーに1時間も電車に揺られていると、どうしても降りたときに一服したくなる」という通勤客が多数派の時代だった。
1974年の新宿駅乗降客は128万人。中央線ホームを降り立った乗客の実に70%がたばこを手にしたというから驚かされる。ちなみにこの年の日本人男性の喫煙率は「82.9%」。女性は12.9%だった(日本たばこ産業(JT)全国喫煙者率調査)。
禁煙タイムの設定にあたり、国鉄はポスター300枚を各駅に掲示したが、あくまでお願いするだけ、ぜひ協力を、という姿勢で、強制するわけにはいかないというのが当時の考え方だった。
ちなみに営団地下鉄(現・東京地下鉄)では、1970年から駅ごとに時間を決めて禁煙を呼びかけていたが、実効性は低かったという。
国電の禁煙タイムは少しずつ効果を上げていく。実施から2か月で吸い殻は10分の1に減少。禁煙駅はその後、都内に拡大していくことになる。新宿駅の階段。半世紀前には、朝夕のラッシュ時に階段や通路へ投げ捨てられた吸い殻で、毎日バケツが1杯になったという
昔は特急や急行列車に乗り込むと、さまざまな匂いがしたものだ。
座席のベロアの匂いとホコリの匂い、夏は冷房の湿った匂い。そしてなにより強烈だったのが、車内に染みついたたばこの匂いだった。
旅行客で満員の優等列車では、リラックスした乗客の多くが自席でたばこを手にしていたから、終着駅に近づくと灰皿は吸い殻であふれた。
トイレに立ってデッキから戻ると、車内が白くかすんでいることも多かった。紫煙が充満しているのである。
今では想像もつかないが、それが鉄道の旅の日常だった。どこの駅の柱にも銀色の灰皿があった
東京・青梅市にある青梅鉄道公園では、往年の新幹線電車を見ることができる。開業当時の転換式シートが残されていて懐かしい。保存された鉄道車両の多くは火災防止のために灰皿が撤去されているのだが、この車両は当時のままである。
通路をはさんで2人がけ、3人がけの座席が並ぶ。座席配置は現在と同じだが、窓の下には大型の灰皿、中央席と通路側の乗客用にも、手すりに小さな灰皿が設けられていることに注目。
通路をはさんで灰皿が5個。この車両は15列なので、合計75個の灰皿があることになる。それだけでも驚かされるが、転換式の座席なので、座席を向かい合わせにしたときのために、よく見ると手すりの裏側にも灰皿がついているのである。1両で軽く100個を越える数になる。
16両編成の夢の超特急は、先頭車から最後尾まで合計すると、実に1500~1600個の灰皿があったのだ。
現在、東海道・山陽新幹線で喫煙可能なのは、N700系に設けられた喫煙ルーム3か所のみである。東京駅では、列車折り返し時間の7分間で清掃を終わらせる優秀なスタッフが世界的に知られているが、大量の灰皿の吸い殻を片づける作業のあった時代は、清掃時間の短縮にも限界があったに違いない。当時の清掃員の方々の苦労がしのばれる。0系新幹線の座席に残る灰皿。半円形のものが中央の座席のもの
1976(昭和51)年8月、新幹線こだまの16号車・自由席の1両に禁煙車が導入された。
女性客や子連れの旅行者に好評で、ひかりにも禁煙車を、との声が高まり署名運動もはじまった。
1978年、「嫌煙権確立を目指す人びとの会」が発足、「たばこのけむりが苦手です」のバッジやポスターが注目される。
1980年には国と日本専売公社、国鉄を相手取り、列車内の禁煙化を求める嫌煙権訴訟も起こった。これらは公共交通機関が非喫煙者の声を取り入れていく契機となった。
かつて主流だった開放寝台。ハシゴの後ろに灰皿が見える。現在日本で唯一定期運行している全個室タイプの寝台列車「サンライズ瀬戸・出雲」では、一部の個室で喫煙が可能
禁煙席と禁煙車は新幹線から在来線の特急や急行にも広がってゆく。翌1981年、在来線のテストケースとして、上野~新潟間の特急ときの12号車に、初めて禁煙車が設けられた。
禁煙車の設定は当初は自由席主体で、指定席やグリーン車に登場するのは1980年代半ばのことである。1984(昭和59)年夏のダイヤ改正で、新幹線と在来線特急・急行の26%が禁煙となった。この時期の国内航空路線の禁煙席は25~35%ほどである。
東京近郊区間、中距離を走る列車にも窓辺に灰皿がついていた。特急や急行列車以外でも乗客はたばこを吸えたわけだが、ラッシュ時には満員状態になる都心部から70~80km程度の区間は禁煙となっていた。この区間はのちに延長され、東北本線では大宮から小山、高崎線では大宮から熊谷、常磐線では取手から土浦までが禁煙となった。
ちなみに区間や時間を限定した禁煙車は、地方でも設定されている。こちらは嫌煙をめぐる取り組みというより、もっぱら非行防止の側面が強かったようだ。学校帰りの時間帯に窓のブラインドを下ろし、ガラガラの車内で仲間とたばこを吸う高校生たちを、旅先で何度も目にした記憶がある。寝台の使用中は禁煙となるため、通路の窓辺に灰皿が設置された
1987(昭和62)年4月の国鉄分割民営化後、JR各社は禁煙への取り組みを強化していく。東京の旧国電区間では1978年までに全駅で禁煙タイムが設けられていたが、1987年7月、山手線の原宿駅・目白駅が初めて終日禁煙となった。
この年、都心部の主要駅で行われたアンケートでは53%が全面禁煙に賛成、規制反対の声は7%だったという。
昭和の終わりから平成にかけて、車内禁煙にも大きな転機がおとずれる。JR九州では九州内の20線区が原則禁煙となり、「禁煙車」から「喫煙車」へと表示を改めて、喫煙可能な車両を限定。1990(平成2)年にはJR東日本もこのやり方に続いた。
JR東海は1996年、16両編成の東海道・山陽新幹線の10両を禁煙車とし、初めて禁煙車と喫煙車の比率が逆転している。
21世紀に入り、駅や列車内の禁煙・分煙はさらに広がっていった。そして2003年5月、健康増進法が施行。受動喫煙への対策は努力義務だったが、2020年の改正健康増進法により、公共施設・交通機関・飲食店などの屋内では原則禁煙とされた。限られた喫煙ルームを除いて、駅構内や列車の座席での喫煙はついに過去のものとなった。
喫煙者には極めて厳しい時代だが、ルールとマナーを守り、受動喫煙への配慮をお願いしたいものだ。N700系の喫煙ルーム内部。密を回避するために灰皿をひとつに減らしている
広岡祐(文筆家)