2022年1月28日 11:30 日経 https://www.nikkei.com/article/DGXZQODK248PH0U2A120C2000000/
すこし昔のテレビドラマや邦画を時々、見ることがある。現代の生活と比べて、2つほどの違和感をいつも抱く。
1つは、当たり前だが、コミュニケーションが牧歌的なこと。スマートフォンはもちろんない。ストラップの派手さを競ったガラケー文化は1990年代半ば過ぎ。オンラインの交流は、パソコン画面の手作り感あふれるチャットくらいだった。
もう1つの違和感は、たばこである。特に90年代は会社や飲食店、移動中の車のなかで、登場人物は実におおらかに紫煙をくゆらせている。歩きながらのくわえたばこや路上のポイ捨ても珍しい情景ではなかった。
今ならば、まったくのマナー違反であり、恥ずべき行為として周囲の厳しい視線を浴びてしまうことは確実だ。副流煙や火災のリスクをうんぬんする以前に、そもそも感覚として社会的に受け入れられない行為だ。
工場廃水が川に垂れ流され、多くの魚が死んでもなお、主人公が「今は工業化を優先すべきだ」などとしてとりあわないドラマの一シーンも、あったと記憶する。これも自由な喫煙と同じ。時代の価値観がまったく違う。
温暖化ガスの野放図な排出も、ところ構わない喫煙や廃水垂れ流しと、同様に見られるようになるかもしれない。温暖化や異常気象との関係を論じるまでもなく、直感的に軽蔑されてしまう。
自由にたばこを吸えないと仕事の効率が上がらないとか、公害対策は利益を圧迫し株主が怒るとか、今やそんな理屈を並べる人はほとんどいないだろう。
脱炭素の必要性を世界は認識している。岸田文雄首相がいう資本主義の古さ、新しさにかかわらず、私たちはコストと時間をかけて、誠実に取り組まなければならない。後にふり返った将来世代から、冷ややかな視線で見られないためにも。