2017年05月15日 11時00分 05/14付 西日本新聞朝刊 https://www.nishinippon.co.jp/nnp/teiron/article/328432/
◆「喫煙ファッショ」終止符を
飲食店内の全面禁煙は、今世紀の世界の常識である。欧米豪はもちろん、韓国、台湾、シンガポールなどの東アジア先進地域でも当たり前のことだ。中国やインドや東南アジアでも、少なくとも大都市は同様である。つながった室内空間の中での「分煙」などというものは、日本でしかお目にかかれないガラパゴス的ルールだ。日本への外国人観光客が急増しているが、彼らが飲食店内で漂ってくる煙に驚き、非喫煙者のみならず喫煙者であっても、その多くがそれを不快に感じていることは間違いない。
そんな中だというのに自民党は、2020年のオリンピックに向けて飲食店内を完全禁煙にするとの厚生労働省の方針に対して、これを骨抜きにするような対案を出そうとしている。もはや「アジアの恥」と言っても差し支えない事態だ。「日本は素晴らしい」と、外国をよく知りもせずに連呼する最近の風潮と、彼らの世界の笑いものになりかねない鎖国的な認識は、通じ合っているように思う。
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そもそも日本国内での喫煙に関する議論はずれている。たばこを好む権利とたばこを嫌う権利を対置して、つまり話を「好き嫌い」のレベルに設定して、その両立を図ろうというような話になっているからだ。それに対し世界中で飲食店内の全面禁煙が当たり前になっているのは、問題設定自体が日本とは違うからである。誰にも他人に自分の吐いた煙を吸わせる権利はないし、誰にも他人の吐いた煙を我慢する義務はないということがそもそもの前提なのだ。
筆者は、愛煙家がたばこを吸う権利を寸分たりとも否定するものではない。合法的な嗜好(しこう)品なのだから、吸いたいだけお吸いになったらよろしい。もちろん吸いすぎの人の健康保険料を値上げするくらいのことは当然やるべきだが、それでも吸うのは自己責任であり、他人がとやかく言うべきことではない。
だが、いかなる愛煙家も他人に自分の吐いた煙を吸わせる権利は持っていない。どんなにお酒が好きでも、他人の口にアルコールを注ぐ権利はないのと同じことである。人間には裸になる権利があるが他人に自分の裸を見ろと無理強いする権利はない。誰にでも歌を歌う権利があるが、マナーの観点で歌っていい場所は限られる。排せつは天与の権利だが、よほどの緊急事態でない限り飲食している他人の前でやってはいけない。
同じことで、たばこを吸うのは個人の完全なる権利だが飲食をしている他人の口や鼻の周りにたばこの煙を漂わせる権利は、誰一人持っていないのである。それは喫煙者による権利の乱用であり、やれば立派にハラスメントだ。
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このように飲食の場での喫煙は、本来ハラスメントなのに黙認されてきた。だがそれは、最近まで電車の中でもオフィスでも喫煙が認められていたのと同じで、権利の乱用が大目に見られていただけのことである。「引き続き大目に見るべきだ。公共の場を禁煙にするのは禁煙ファッショだ」という批判があるが、自分の吐き出した煙を他人に吸わせることこそ「喫煙ファッショ」だろう。一滴も飲めない人に無理に酒を飲ませるのが、暴力行為であるのと同じだ。
いま日本が問われているのは、世界共通のこういう理屈を、理屈通り受け入れる理解力、基本的な人権感覚があるかということだ。タクシーの全車禁煙の時と同じで、全店一斉に実施すれば客が減ることもない。万が一、国の方針が曲げられてしまったとしても、世界に開かれた日本の窓である九州各県では、世界標準を取り入れるように努力すべきだろう。
【略歴】1964年、山口県徳山市(現周南市)生まれ。88年東京大法学部卒、日本開発銀行(現日本政策投資銀行)入行。米コロンビア大経営大学院で経営学修士(MBA)取得。2012年1月から現職。著書に「デフレの正体」「里山資本主義」など。